カオスの縁を住処にする
理解するためにはフレームが必要になる。フレームを設定したら、世界のすべてをそのフレームで理解したいという衝動に突き動かされて進む。
しかし、この衝動は成就することはない。外へ外へと拡張しているうちはよいが、どこかで矛盾にぶつかり、フレームの前提となっているもの、フレームを設定する上で無視したものなどが盲点としてあぶり出される。
フレームの前提を問い直すことは、クレタ人問題のような自己言及をはらみ、論理空間に穴が空く。
フレームが無視しているものは、フレーム外部から浸食してきて、フレーム内部の論理を崩壊させていく。
そして、穴のあいたフレームを、居心地の悪さを感じながら使い続けるか、穴の存在を否定して自己欺瞞の世界に逃げ込むかの二択が突き付けられる。
穴のあいたフレームの存在を受容すると、穴から得たいの知れないものが次々とやって来て、それによってフレームそのものも作り替えられていく。
身体が受け取った様々なものが論理空間を侵食する。
レヴィナスは、この穴を家と呼んだ。
男性性で象徴される論理空間と、女性性で象徴される身体とが結婚して暮らす家。
この家は、カオスの縁に建っている。
この家に住むことが、カオスの縁を住処にするということだ。
この場所に集まってはたらき、学び、生きていく仲間とコミュニティを作る。それが、与贈工房、自己組織化する学校、自己組織化するコミュニティ。